kazutomoのブログ

たまーに気が向いたらなんか書きます

一度脱線したところから、きれいなレールに乗ったけど、やっぱり降りた話

少年期

小学生の頃はとても勉強ができる子どもだった。

中学に上がって、しばらくしてドリームキャストが発売された。

全てはここで変わった。 手の届くところにインターネットがやってきた。

私は毎日チャットに明け暮れ、莫大な通話料金で親に怒られた。 しかたがないので、テレホーダイを契約してもらって、夜にインターネットを楽しむようになった。

そして、学校では寝て過ごすようになった。

青年期

高校受験の頃にはどうしようもないバカになっていたけれど、 まだ学生は続けたかったので、流されるまま地元の偏差値40以下のクソ高校に通い始めた。

ちなみに、この頃 偏差値の意味もわかってなかった。

私生活の方では若干の変化があった。

プログラミングを覚えて、ゲームを作るようになっていた。 ネット上で絵師や音屋を捕まえて、一緒にゲームを作ってコミケで頒布するようになっていた。 とはいえ、数年かけて作ったものが、販売枚数は数百枚程度だった。

高校を卒業すると、(さいきん似たようなエントリで同じ名前を見た気がするが)京都コンピュータ学院に通い始めた。 ここで学んだことはあまり多くはなかった。

私生活のプログラミングは、同人ゲームを作ることから 当時勢いのあった i-mode 向けの商業ゲーム開発の下請けをするようになっていた。 その他、WEB系のベンチャー企業でアルバイトとしてプログラムやインフラ保守もしていた。 2人の社員と事務のアルバイトと自分の4人がアパートの一室で働くような感じだった。

そういえば、その当時、魔導物語というぷよぷよと世界観を共通とするRPGに特別な思い入れがあり、勝手に新作っぽいものを i-mode 向けに作ったら 最近 にょきにょき で話題の仁井谷さんから呼び出されて、震えながら会いに行ったら 商業作品として世にだそう。と言われたのが懐かしい。

なお、報酬はもらえなかった。 NDAだけ結んで、契約書などなにも結んでいないという、まさに若気の至りだった。

就職

学生の頃の実績もあり、就職活動は順調だった。 最初に受けたセガにすぐに内定をもらい、就職活動はあっという間に終了した。 セガをはじめ、ゲーム会社に受かってなかったらコンビニ店員になっていた自信がある。 それくらい、当時の私はゲーム会社以外への就職に全く興味がなかったのだ。

ちなみに、その後 SCE任天堂 だけ受けてみたが、 SCE は一次面接で落ち、任天堂は英語や数学といった超苦手分野な筆記試験で落ちた。

社会人

こうして、晴れてセガ社員として働き始めることになった。 このとき当時付き合っていた彼女を東京に連れていくために結婚することにした。

セガでも学生の頃の実績を活かすためか、i-mode 向けのゲームを作ったり、 ソニックカフェという公式サイトのサーバプログラムをいじったりしていた。

それから2年が過ぎたあたりで子供ができた。 子育てのために派遣社員をしていた嫁さんが働けなくなり、生活は苦しくなった。

当時年収500万くらいだったとおもうので、成り立たないことはないと思うが 毎月ボーナスで作った貯金を切り崩しながら生活をしていて、厳しさを感じていたのは覚えている。

そして、給料を増やすための転職活動をはじめた。 候補として上がったのは、外資系で給料が多いことが期待できるGoogleと、ゲーム会社の中でも一番給料の高い任天堂だった。

結果、Googleは電話面接で落ち、任天堂はネットワークライブラリ開発者として受かった。 任天堂では、開発者にネットワーク対応ゲームを開発するために提供するSDKを開発するチームに配属された。

最初の仕事は ニンテンドー3DS のOS開発で、登録された複数のアクセスポイントや、ニンテンドーゾーンのようなホットスポットなど 接続対象となるアクセスポイントから現在最も適したネットワークを選別し、インターネットに接続する処理を担当した。

ちなみに、ニンテンドー3DS が 3D液晶を積んでいることは、公式発表のプレスリリースで知った。

その後、ライブラリ開発から、新設されるサーバ運用系のチームに移った。 そのチームではオンライン対応ゲームのマッチメイキングサーバやランキングサーバの運用業務をすることになったが、 主たる業務はインフラの増設のプランニングや、アクセス数の予測精度を上げるためにゲーム開発者にゲームの仕様をヒアリングするWEBシステムの開発だった。

とはいえ、サーバ費用のコスト感に関しては、このチームが最も優れていたので サーバ費用を削減するためにどういうアプローチを取っていくべきか。という切り口で開発業務も多く担当した。

そんなこんなしている間に、去年。岩田社長が突然亡くなった。

私は岩田さんをとても尊敬していたので、かなりショックを受けた。 このあたりで会社を離れることに対して意識が向き始めた。

同時期、AmazonAWS Lambda に加えて API Gateway をリリースし、サーバレスアーキテクチャという技術が芽を出してきた。 私はこの技術に最初触れたときに、未来のサーバ開発はこちらだ。という天啓のような物を感じた。

起業

サーバレスアーキテクチャでゲームサーバを開発すれば、スケーラブルで安定性の高いシステムが低価格で作れるという確信を得たのは、去年の11月頃だった。 そこから開発を開始し、同時に上司に「今の仕事はあまり楽しいと感じていない、仕事の内容を変えてほしい」という相談を持ちかけた。 これで、任天堂の中でもっと興味を持てる仕事ができれば、それでもいいと思っていたからだった。 なにより、任天堂なら体力的にも信念的にも定年まで雇ってくれる可能性は高く安定していたからだった。

4月になっても仕事の状況は変わっていなかった。 そして、平日は毎日家に帰って寝るまでの間、休日には丸一日 時間をかけて開発を続けていた サーバレスアーキテクチャで開発していたゲームサーバの方もある程度めどが立っていた。(おかげで私は光の戦士を卒業してしまった) 仕方なく私は任天堂を去るという決断をし、上司に話を持ちかけた。

今かかえている仕事が落ち着く7月いっぱいで休暇に入り、8月いっぱいで退職したい意思を伝えた。

そして、今月。会社を起こした。 Game Server Services 株式会社(https://gs2.io/)という会社で、スマートフォン向けのゲームサーバをAWSのように1時間数円から利用できるサービスを提供する会社だ。

インターネット漬けになり学校では寝て過ごすことで、一度レールを外れた私だったけれど、就職を期にレールに戻った。 そして、サラリーマンとして十分すぎるポジションまでいったけれど、自分からレールを降りる決断をした。 今後のことはまだわからないけれど、今はただこれが後悔にならないようにしたいと思っている。